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ハワイの風になった彼女

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GWのさなか、よく知った笑顔がFacebookのタイムラインを埋め尽くした。
ハワイの海で、ステージで、日常の何気ない場所で撮られたひまわりのような笑顔とは対照的に、写真に添えられたテキストはどれも胸を割くような悲痛な叫びに満ちていた。

彼女は誰も手の届かない遠いところへ、たったひとり旅立ってしまったのだ。

2日間、彼女を偲んでとてつもない数の人が集まったという。
次々と書き込まれる彼女のタイムラインを眺めながら、最後の別れを告げにいけない自分がもどかしかった。
突然の報せに、空を見上げては立ち尽くすばかりだった。

そういえば、私にはずっと彼女に聞いてみたいことがあった。
でも、今となってはそれも永遠に叶わない。

 
初めて会ったのは、彼女がまだ20代半ばの頃。
私はちょうど30歳だったと記憶している。
場所は、とあるフラハラウ(一般には「フラダンス教室」として知られている)。

私たちはそこの一期生だった。
初心者ばかり寄せ集めたクラスだったせいもあるけれど、私たちはみんなどうしようもなく踊りがヘタだった(笑)。
彼女もまた例外ではなく、ステップも笑顔も、大変、大変、ぎこちなかった。

一期生で今もフラを踊りつづけている人は、恐らくそう多くないだろう。
かくいう私も、フラから離れて久しいひとりだ。

しかし、彼女はずっとフラをつづけていた。
自分が踊るだけでなく、子どもたちにフラを教え、ウクレレを弾き、数々のステージにも立っていたようだ。

Facebookに投稿されたのは、輝くような笑顔の写真が多かったけれど、私が出会った頃の彼女は、いつも困ったような、傷ついた捨て犬みたいな顔をしていることが多かったと記憶している。
そのくせ、あの頃は確かタバコを吸っていて、肩をそびやかせて目一杯虚勢を張っていた(ように私には見えた)。

彼女はそんなふうだったし、私自身は今も昔も団体行動がひどく苦手なために、最初の頃、彼女と会話した記憶がほとんどない。
しかし、通称「土B」と呼ばれたクラスの、陽気な仲間たちのおかげで、私は見事オンナの園へと引き込まれ、結果、彼女との距離もぐんと縮まった。

仲良くなってからの私たちは、三田にあるアダンに行ってみんなでよくお酒を飲み、他愛のない話をしては踊り、飲み、また踊った。
「アロハシスターズ」という名のダンスユニット(実際のところはそれほど大げさなもんじゃないけれど。それにしてもベタなネーミングだなあ!)を組み、結婚式やパーティ、飲み屋、あるいは自宅など、ことあるごとに一緒に踊った。

技量よりハート。
アロハシスターズは、そういうメンバーで構成されていた。

いつからだろう、彼女の表情がやわらかくなったことに気づいたのは。
ステップからぎこちなさが消え、手も足も流れるような優雅な動きに変わったことに気づいたのは。
 

フラをはじめて4年ほどたった頃、仕事が忙しさを増し、そのうえ公私ともに心が荒むようなできごとが次々と重なったこともあって、私の足は次第に土Bから遠ざかっていった。
このままだと八方塞がりのような人生を一変させたくて、私は結婚という道を選んだ。
幸運なことに、その後、子宝にも恵まれた。
山あり谷あり、20代後半からなんとか経営をつづけてきた会社は、いつのまにか10年を迎えていた。

2010年の年末、私は久しぶりにアロハシスターズに声をかけた。
会社の10周年記念パーティで踊ってほしいと。
かつての仲間たちは、一も二もなく快く引き受けてくれた。

やわらかな笑顔としなやかな手足の動き、左右に大きく揺れるスカートは、真冬の東京のカフェの店内を一瞬にしてハワイの空気に変えた。
私も何年かぶりに一曲だけ踊った。
数え切れないほど、みんなで一緒に踊った曲だった。

アロハシスターズを代表して、彼女が挨拶をしてくれた。
仕事の途中でスタジオに現れては、レッスンを受けたあと、いつもビールを1杯だけ流し込んではまた仕事に戻っていった私のことを揶揄しながらも、愛に溢れた、とても温かいスピーチだった。

なんだ、すれっからしは私のほうじゃないか(笑)。
人前で泣くような玉じゃなかったはずなのに、思わず目の前が曇った。

そう、次に彼女に会ったら、絶対に聞こうと思っていたんだ。
臆病な捨て犬みたいな顔をしていたあなたと、あなたのフラそのものを変えたのは何?
あるいは誰?(笑)と。

昨年末、一時帰国中にアロハシスターズのメンバーでほんっとうに久しぶりにアダンで飲んだとき、彼女はその場にいなかった。
聞けば、体調が悪いという。
「残念だね。でも、また次の機会に!」
そう言ったものの、はたして次の機会は二度とやってこなかった。

 

ハグと笑顔とやさしさを与えつづけ、大勢の人の心に足跡を残し、一陣の風のように去っていった彼女。
今頃はハワイの海を、島々を、変幻自在に渡っているのか。

フラを通じてここまで変わった人を、私はほかに知らない。
(そう、私には彼女の回答はわかっている。彼女を変えたもの、それはきっと「フラそのものであり、ハワイ」なのだ)

フラとは、もともとハワイの神々に捧げる巫女の踊り。
清らかすぎる彼女の魂に、ハワイの神さまが魅せられたのか。
そのせいでひと足もふた足も早く、本当に残酷なほど早く、遠いところに導かれていってしまったような気がしてならない。

あとで彼女のことを傍で見守りつづけてきたアロハシスターズのメンバーのひとりに聞いたら、フラやハワイの文化に深く入り込み、それを仕事にするようになった頃から、それまで漂っていた彼女が安定していったという。
自分の居場所とか、役目を見つけたせいじゃないだろうか、ということだった。

そうか、とびきり居心地のいい自分の場所を見つけたんだね。
だから、そこにいる人たちやそこを訪れる人たちを抱きしめては、もっているものを惜しみなく注いだんだね。

ハワイから来日したフラの偉い先生のワークショップで通訳をしたり、フリーランスライターとして、ハワイやフラの記事を書いたりという仕事もしていたそうだ。
フラを教えていた子どもたちへの愛情も、それはそれは深いものだったという。

「ひとが一生で注ぐことができる愛情の量は決まっているのかもしれない。彼女は一生分の愛情を注ぎきったのに違いない」
Facebookにそう書き記したのは、アロハシスターズの別のメンバーだ。

 

順子ちゃん、マレーシアでもね、ハワイみたいな光の朝があるんだよ。
ハワイみたいな気持ちのいい風が吹く朝があるんだよ。
洗濯物を干しながら、この先、私は何度でもあなたのことを思い出すだろう。

いつぞやは、仕事を手伝ってくれてありがとう。
順子ちゃんが会社を辞めてフリーランスになるって聞いたとき、実は少し心配したんだ。
私よりずっと繊細だから、傷ついたり、疲れたりしちゃうんじゃないかって。
でも、頼んだ原稿を受け取ったとき、それは私の杞憂にすぎなくて、あなたにとても向いた仕事だということがすぐにわかったよ。
もっと仕事の話もすればよかったなあ!
 

相も変わらずすれっからしの私が神さまに呼ばれるのは、少し先のようだ(許されるならば、まだ当分先であってほしいと願ってる)。
それまで、ジタバタしながら生きていくよ。

ああ、もう一度会って話がしたいよ。
今夜はミントたっぷりのモヒートを飲みながら、久しぶりにサンディーでも聴こうか。
友よ、久しぶりに踊ろうかとも思うけど、私にはもうステップがうまく踏めない。

そちらに行ったら笑ってね。
そして、優雅にパウスカートを揺らして、そのしなやかな長い手足で踊ってみせて。

 

 

Thank you for a lot of Aloha. She was a really beautiful and soulful hula dancer.
R.I.P. Junko Nagai