死ぬまで、生きよう

父を看取ること、送ること、2つのミッションを終えて、無事にマレーシアに戻っています。
帰るなり、ほんっとにいろんなできごとがありまして、すっかり更新が遅くなりました。

ときどきしんみりしながらも、いつもどおり元気でやっております。
だって、子どもたちも犬たちも、毎日エンジン全開。
しかも、日本の寒さも哀しみも忘れさせてくれるほどにマレーシアは暑くて、毎日いろんなこと(トラブル多発!)があって、正直、哀しんでる場合じゃなかったりもします。
 

そんな感じなので、父と過ごした最後の2週間は、ふり返ると夢の中のできごとのようです。

「今週末までもたないかもしれない」
父の容態がよくないことを聞き、やりかけの仕事と子どもたちを抱えて、文字どおり飛行機に飛び乗りました。

でも、病院に到着してみると、顔色は悪いものの、見舞客と談笑できるほどに回復した父の姿が。
ほっとしたのもつかの間、回復は一時的なもので、その後、ゆっくりと下降していきました。

昨日は体が起こせたのに、今日はもう起こせない。
話すとろれつがまわらない、翌日はもう話もできない……
という日々を重ねていきました。

亡くなる3日前、子どもたちを連れて病室に行くと、弱々しく孫の手を握り、涙を流す父の姿が……。
その翌日から、ひどくなった痛みをおさえるため、薬の量を増やしたことで、父は意識を失いました。
そしてそのまま、母と私が見守るなか、静かに息を引き取りました。
 

「肉親の最期の瞬間に立ち会える家族は、実はほとんどいないんだよ」
そう教えてくれたのは、病院に勤務する弟でした。
かくいう本人も仕事のため、父の最期を看取ることはできませんでしたが、週末の2日間、母の代わりに病院に泊まり込んでくれました。
その間、たっぷりお別れをしたそうです。

それを考えると、海外に住んでいながら、親の最期に立ち会えたことは本当に幸運でした。
まわりの方々の協力なしには、実現できませんでした。
改めて心より感謝申し上げます。
 

通夜は自宅で、葬儀は式場で行いました。
山と文学を愛した父らしく、家族が納得するかたちで、送り出せたかなあと思っています。

忙しいなか、遠路はるばる東京や神奈川から徳島に駆けつけてくれた友人や仲間たちには、もうなんとお礼を言っていいかわかりません。
たくさんのお花や電報も、本当にありがとうございました。
家族がどんなに慰められ、励まされたかしれません。
 

個人的には、出棺のときの「放鳥」が印象的でした。
オプションでなかなかいいお値段だったのですが(笑)、母の強い希望でお願いすることに。

式のあと外に出ると、真っ青な空が広がっていて、2月にしては暖かい日でした。
出棺の合図とともに白い20羽もの鳩たちが一斉に飛び立ち、頭上で大きく2度、旋回して飛んでいきました。
鳩20羽というのは通常よりかなり多いらしく(田舎だから? それともお値段だけのことはあったのかしら? 都会の「放鳥」がいったい何羽でいくらなのか知らないのですが)、なかなか見事な羽ばたきっぷりでした。
それは、旅立った父を象徴するようでもあったし、これから父のいない人生を生きていく母を象徴するようでもありました。
(ちなみに放たれた鳩たちは、川向こうのおうちにちゃんと帰って行くのだそうです……超現実的な話+稼ぎのいい鳩さんたちですね!)

 

ただの偏屈おやじから、かなりの偏屈じじいになっていった晩年の父は、正直、私の中ではマイナスポイントのほうが高かったのですが(大体、海外移住を決めた理由のひとつも、「父と実家でこれ以上暮らせない!」と思ったからでした)……。
死後、すべてのアルバムを引っ張り出してみたら、それはおよそ20冊にもなりました。

私と違って几帳面だった父は、写真に日付やコメントを記していて、幼かった私をどんなまなざしで見つめていたのかが、私自身も親になった今は、手に取るようにわかりました。
また、長女の私よりは少ないものの、弟の分のアルバムもちゃんと遺していました。

最後に開いたのがいつだったのか、記憶にも残っていないアルバムの中には、海やら山やら連れていってもらった家族の思い出がいっぱいで、幼かったときの記憶が一気に押し寄せました。

案外、悪くない家族だったのかもなあ……。
永遠に失われてしまった時間と、失ってしまった人の存在の大きさに、ただただ圧倒されるのでした。

 
ふり返れば、父が生きてるうちにああすればよかったな、あんなふうに言わなきゃよかったな、って思うことがたくさんあります。
でもそんな思いも、すべて背負ったまま、死ぬまで生きていきます。
いい思い出も、そうでないものもすべて。

やがて誰もが必ず終わりを迎え、愛する人たちと永遠に会えなくなる日がくることを、死者は身をもって私たちに教えてくれています。
だからね、死ぬまで生き抜こうって思うんですよ。
 

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もっとも古い記憶のひとつは、数え年で祝ってもらった2歳の七五三のとき。
左の写真は、父にたこの風船を買ってもらった直後。
でも実はこのあとすぐ、自分で持ち替えようとして失敗し、風船を飛ばしてしまったんです。
青い空にどんどん吸い込まれ、最後には溶けて消えていったピンク色を、鮮明に覚えています。

 
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東京から駆けつけてくれた友人たちが、口を揃えて驚いた写真。
若かりし頃の母が、今の私にそっくりなのだそう。
ていうか、母、パンチパーマなんですけど……

 
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いちばん奥は、父の愛用した登山リュック。
そして、真ん中が父が遺したたくさんのアルバム。
近頃はアルバムを丸ごとデータ化するサービスもあるそうで……。
海外にもっていくには重すぎるから、利用してみようかなと思ったりしています。
(本のデータ化と違って、アルバムを断裁することはないそうですよ!)